「My Bible」
トリシャ。 “she is my Bible.” 英語で多くを話す言葉を持っていない私はトリシャのことを表す尊敬の念をBibleとい言葉に替えてから、この言葉が自分との関係に相応しいと納得して使うようになった。ジャドソングループを知らなければ現在の自分を想像できない。ダンスに未来はないと思っていたのだからまずはダンスから離れていただろう。ジャドソングループに頭をぶたれ(衝撃)、ダンス(生き方)を選んだ。私が踊っているのは「トリシャが在るから」が、大きな理由の一つである。話しもしたことない。会ったこともない。NY滞在中(80年代初頭)トリシャのワークショップ広告を数回目にしていたので行く気になれば近寄れた。紹介してくださる道もあったのだけど行かなかった。そばに行くよりトリシャと距離をもちながら彼女を覗いていることを好んだ。それで私はいつもトリシャから遠回りをした。
余談になるが一度馬鹿げた接近をした。トリシャが踊る公演の一番前の客席に着いた。それは指定席であったが私の席ではない。空いていた。当のその席の人は遅れて来るのか来ないのか、とにかく空いているなら私がそこに座るに相応しいと勝手な判断を通すことに堂々の自信と初めてトリシャに最短距離で近付く興奮で高揚していた。トリシャが踊るというのに遅れて来るなんて許せない。この会場の中で私ほどトリシャに(ジャドソンに)執着している者はきっといないのだから私こそがここに座るべきだ、という理由にならない理由で席を移動した。開演から30分ほど経った頃その席の主が来た。当然その人はエクスキュ-ズミ-この席はアナタの席ですか?と言ってきた。私の席ではないのだけど私がここに座るべきなのです。なぜならあなたより私の方が確実にトリシャを尊敬しているからです。あなたは遅れて来るくらい呑気な人です。少し端ですがあなたに私の席を差し上げます。とんちんかん極まりない態度で通過した。その頃(90年初頭)アメリカのダンス現場でさえもジャドソンのことを知ってる人にはなかなか出会えず淋しい思いでいた。ジャドソンの中でトリシャだけが実際にまだ踊っていたので心底応援したかった。
頭をぶたれたのは70年代の活動である。ダンサーが川に浮かんだ筏に乗って一連の振りをしながらゆっくり川を流れていく。公園でダンサーが数人立ったままお揃いの振りがズレて時間もズレる。ビルの屋上で身体が咲いている。壁を登っている。荷物のように転がっている。フォルムがない。喋っている。幼稚園生のように単純な動き。等等こういう行為をダンスと言い切ったことに頭をぶたれた。こういうことをダンスとはそれまで誰も言わなかった。これはダンスだ!と、誇らし気な態度に輝いていることに驚いた。実際それらは他のダンスより遥かに鮮烈で人間が生きている問いと美しさに溢れていた。ジャドソンメンバーの活動を私は主にライブラリーの記録で見たのであって、なぜ私は60年代70年代には自分が子供だったのかを悔しがった。当時(80年代前半)、ジャドソングループの活動も終盤になっていて実際に行為を目撃出来たのはトリシャ以外にルシンダ、デビットゴードン、モンクだけだった。ジャドソンを少しでも多く知りたくて毎日ライブラリーに通った。どう踊るのかではなく時間と場所にどう身体を置くのか。それまでのダンスの制約を断ち、拓く勇ましさとダイナミックな明るさ。これをダンスと言うならば私もダンスがしたい、もっとしたい。記録は既に10年も前のものなのにライブラリーに通う度に自分が新しく漲る。ジャドソンの活動を知ること以外他に興味を持てなかった。出社するようにライブラリーに通う。襟を正して画面を見ていた。
今は閉じている「偶然の果実」(グーカジ)注※1は僭越に思われようともジャドソングループから受けた感銘を力にダンスを表明することを意識して90年に始めた。実際のジャドソンからなんと30年も過ぎてからのグーカジである、が、このようなタイミングと環境は簡単にやって来るものではなかった。ジャドソングループが投げた矢を拾ったのなら次の時空間に投げていこう(出口→弁)、という心意気で奮起し続けた。なにもジャドソングループから頼まれた訳ではないのに苦労の道を選んだ?が、苦労はたのしい。悶絶しそうな時もダンスの誇りがグーカジを支えた。ダンスが立つと戦いの硬さも至福に溶解してまた次のグーカジを起こす準備に突き動かされた。私がここで言いたいのはグーカジの結論ではなく、活動は火のように飛んでいき、どこか誰かによって感知され遠隔にも受け継がれているその火を言いたい。火を知ったなら消すわけにいかない。火傷が誇りで源になっている。
80年代からは作品に関心がないのだがトリシャの態度に叫んで立ちそうになったことが二度ある。外部の制約にも自ら持った制約にも断つべき時のまなざしは鷹。断固としてるのに硬直しない。作品名や年数を私は覚えようとしないのでいつのなになにと説明できないのだが二度ともトリシャのソロであった。この二度を目撃できただけでトリシャの宝を覗かせていただいた気になっている。
その?
彼女はその日その舞台で踊っていた。もう何十年も踊っているようにその日も踊っていた。そのソロが終わったようで袖に帰りかけた。が、袖で止まっている。ハケない。では終わってないのか。やぶにらみのまま止まっている。わーーーーなんで止まっているのか。ハケるでもなく踊るでもなく。どっち。嬉しくて息が詰まりそうになる。踊るのかハケるのか。この場ではニ択しかあり得ないこのどちらにもつかない宙ぶらりんの緊張で窒息死したい。結果ハケたのだが、喘ぐほど長い燃える静止であった。動くより何年分もの話しを聞いたような豪華な静止。その次のシーンはなにであったか音楽もなにも覚えていない。その静止に私は吸い取られ骨抜きで膨らんで帰る。
その?
最後にトリシャを見たのは2000年だ。開演は夜の8時からでもなかなか時間通りにいかないにしても遅すぎる。プログラムのトップがなんとトリシャのソロから始まるなんて、なんて豪勢だこと、と待つこと30分。客電落ち、おおおーやっと始まる身構える。舞台に明かりが入ると同時になんの思わせぶりも溜めもなくあっけらかんとトリシャが飛び出てきた途端にいつものようにひょいひょい動き出す。たぶんもう60才代の身体に全身タイツを着ていた。やるなー、と感心している間に踊り終わった。3分位か。あまりの早業に呆気にとられていたら客電が点き20分の休憩に入った。なんと素晴らしい。完全に不意をつかれた。出てきたと思った途端に終わったのだ。踊りを味わおうなんて鈍いのだ。味わう経験をさせる前に疾走して消えるのだ。トリシャはいつまでもトリシャであった歓びに感激してその後の演目のことはまたなにも覚えていない。
なぜ私がここでトリシャのことを語る役目になったかを考えた。きっと語る人が少なくなったのだろう。時代が過ぎて語れる人は死んでしまったり見えなくなったのかもしれない。ジャドソンの活動は人が人として生きる為の根っこであり、ダンスの領域だけに納まりきれないはず。だからダンスに限らず他の分野では重視されているのか、きっとそうに違いない。そうでなければ困る。私はジャドソンの存在を知ってから夢中になって追いかけてしまったので他の多くの人もきっとジャドソングループに吸引された人が多いだろう、とずっと期待していたのだが実際はそういう人にはほとんど会ってない。本も少ない。それでもう話すのも実は億劫に思うようになった。これは私独りのロマンスで良いと思うようにした。ジャドソングループ、彼らの姿勢に私はぞっこん傾向したのだから私の踊る身体のどこかに潜んでいるはず。語るより踊ることが彼らに対して最大の礼儀と考えて踊っている。トリシャは別格だ。私でなくても世界中の誰かが語る。他のジャドソンメンバーはなぜダンスから離れたのか、なぜトリシャはその中でまだ踊っているのか、噂のように聞く話しもあるが、ジャドソンの中ではもうトリシャしかダンスを見ることができなくなってしまった。今回トリシャは踊るのか。トリシャより鮮やかに巧く踊れるダンサーの踊りなら私は見なくていい。拒絶しながら踊るトリシャを見たい。なのでとにかく元気に来日して欲しいと遠い親を思うような気持ちである。
注※1「偶然の果実」(グーカジ):「偶然の果実」は即興を最大の軸と据えダンスとダンスする身体を無骨に問うプロジェクトとして黒沢美香と出口→が「偶然の果実の会」の窓口になる。90年stスポットで始めて以来場所を転々と流浪しながら02年までに44回の上演を重ね退屈も爆発も背負って遠泳した。参加された勇士はダンサーだけでなくパフォーマー、音楽家、美術家、詩人、役者、写真家、ギャル、技術屋、先生、ママさん、等、200人近い。
黒沢美香
(2006年「トリシャ・ブラウン-思考というモーション」
Trisha Brown-Motion of Thoughtより転載
発行所/ときの忘れもの 発行日/2006年3月22日)