「私の清純」
いつの間にかコンテンポラリーダンスと呼ばれる時代になりそれは自分とは違う種類のダンスかと思っていたほどどういうダンスを指してることなのか全く知らないでいたのだが私もまたコンテンポラリーダンスの分野らしい。このもう一つ前に言われていたポストモダンダンスという言われかたの方が私は好みであった。モダンダンスからのページをめくった語感がある。更に遡り舞踊家である両親(昭和ヒトケタ)の時代は洋舞という呼び方であった。時代によって呼び方は変わるが違う種類のダンスだとは私は思ってない。ダンスというものがダンスする身体によって場も時も溶かす祝福の狂気を指す呼び名であるなら。
時代によって…という言い方を私もするようになった。この言い方をすると年をとった気分になる。一つの時代を踊りながら跨いだことに最近気付いている。時代がダンスと指してるものと自分がダンスと指すものがズレてる。いやずっと以前からズレていたのは知っていたのだから今さら驚いてるわけではない。ズレてるから私もやる意義がある。一致した幸せもまた困る。ダンスとダンスのようなものが以前から同じ括りでダンスと呼ばれていた。最近もう一つ気付くのはテレビやクラブでも起こるチカチカして学園祭のような見易いテンションを身体に備えたそれもダンスと呼び一部やメディアで喜ばれている。なのでダンスと呼ばれる枠は拡大しその分的は見え難くなる。私が言うダンスとは見るダンスではなく読むダンスだ。反旗を掲げるのはともかくそういう時代に移ったことは認めなければならない。
なにをダンスと呼ぶかの呈示拡大は先輩闘士陣も戦ってきたところであるが私もまた宣言し生き方を賭けて奮闘してきた自負がある。ダンスは特別なものではない、などと今聞けば当たり前過ぎて意味不明かもしれないがダンスは特別なものであった。極端に言えば多くは女子供のものであったし訓練やキャリアを要するものと教育され信じられていた。美の体系は狭く疑われていなかった。それ等が私含め周辺活動家の反動エネルギーであった。ダンスにはもっと底力があると私達は信じていた。その為にはダンスにテクニックは邪魔だ、フォルム、経歴、ダンサーらしい体型なども不要、偉くなったらオシマイだ、などなど既成に対する反発はあった。今や当たり前のことが当たり前として通り難い視線があった。それとは反対にバブル時の景気が多目的空間やカフェバー、ビヤガーデン、ディスコなど、パフォーマンスを見込んだスペースの設置が急増しそれらに伴って強引な企画も急に増えたことはダンスを混ぜこぜにする好い機会となった。ダンスを守らずいじめるべきだ。私はダンスをもってダンスに改革を起こす使命感に尖っていたのでぶつぶつ怒りながらパンクでダンスする生意気なダンサーとして面白ろがられたかもしれない。戦うべき対称が今より具体的だったとも言える。私は既成がやって来ると体が拒否反応を起こし実際に発熱するアレルギーがある。しかしこのアレルギーもまた自ら既成を追いやり狭くしていることと言える。ダンスはダンスする意志の姿勢でありそれは刃物のようでいながら大らかである。勇敢な行為だ。ダンスという分野を指しているのではなくダンスという力を私は指しているのである。
ダンスは特別なものではなくアナタノスグ隣ニアルモノ、誰モ彼モがダンサーなのだ、と私は言いたかった。テクニックがダンスにとってなんなのだという突っ張りは私の顔を更にしかめっ面にした。子供時分から<美>のダンス漬けに仕込まれていた私はテクニシャンのイメージで見られる中、抵抗のしかめっ面で立っていたことだろう。日常の仕種や生活道具をパートナーに用いた。そして舞台のような化粧をしない。衣装ではなく日常の普段着にする。舞台らしき設定の場所も警戒する。これらもまた今は極々当たり前のことでも20年前はあれはダンスではないと言われた。それまでの人間関係も変えざるを得なくなると同時に異ジャンルの活動家との新しい交友に変わる。些細かもしれない表象だが表象の事変で神経をサカナデされたり自信ももてる。干渉は様々で身体はぐらつき易い。人はなかなかほっておいてくれない。その中で本質から迷子にならないでいるのもまた別の干渉(友人)に助けられただろう。
等身大の話しに変える。「ダンスは特別なものではない」はもうやめた。「ダンスは特別なのだ。アナタノ隣ナンカニハ絶対ナイノダ。」と言い替えることにしている。素顔や普段着で踊るのはもういい。それは最近の方々にお任せする。私は隠して騙してぎどぎどに変装する。外見は変装で身体は以前と同じダンス所作をする。なにがダンスでなにはダンスでないかどうでもいい。嘘をついて逃げる。磨いた一流の嘘を差し上げる。40才を過ぎてからソロダンサーデビューした「薔薇の人」シリーズでは「ワタシはこれこそをダンスと言うのですがアナタはこれをダンスと言いますか?」という問いの試み私の清純である。私は今後妖怪になることを目指しているのだ。ざまーみなさい。 黒沢美香
(2005年 美術手帖12月号 美術出版社より転載)